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雉岡城跡の周辺情報

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雉岡(「きじおか」・「きじがおか」)城は本庄市児玉町八幡山(はちまんやま)にあり、旧字雉岡の地名をとってつけられた城で、小丘陵上に築かれています。別名を「八幡山城」ともいいます。雉岡城の築城は、「上野国志」という書物によれば、「室町時代の山内上杉顕定が築いたが、地形が狭いため上州の平井城に移り、家臣の有田豊後守定基(さだもと)を置いて守らせた」とあります。この有田定基は当時上野国藤岡城主でしたが、これ以後、雉岡城主となりました。このときに、姓を「夏目」と改めたといいます。城主を関東管領(かんとうかんれい)山内上杉家、後北条家、と替え、小田原北条氏滅亡後、江戸城に家康が入り関東の体制を整えるため、家康は一族の松平清宗(きよむね)・家清(いけきよ)父子に雉岡城(このころは「八幡山城」と言った)と一万石の領地を与えました。その後、清宗の嫡男・玄蕃頭家清(げんばのかみいえきよ)が跡を継ぎましたが、関ケ原合戦の翌年の慶長6年(1601年)には、合戦の勲功により三河国(愛知県)吉田へ転封となり、児玉の地を離れ、城は廃城となりました。現在、明治時代に三の丸一帯が児玉高等女学校(現在:児玉高等学校)の敷地となり、その後、本丸から二の丸一帯は児玉中学校の敷地となり、城の遺構の多くが失われています。現在、雉岡城跡は埼玉県指定文化財(史跡)となり、城内には大規模な土塁や堀が残されています。春には小丘の地形いっぱいに桜が咲き、趣のある景色を楽しむことができます。
埼玉県本庄市児玉町八幡山446
最寄り駅:児玉駅
(1)JR八高線児玉駅から8分













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